新横浜ラーメン博物館
そこに広がるのは郷愁の世界。昭和33年、日本のどこにでも見られた下町が、みごとな夕焼けのなかにたたずみます。うまいラーメンをよりおいしく食べるというだけでなく、昭和30年代初期への時間旅行も楽しめるという大胆な演出です。夕焼けとラーメンが恋しくなったらいつでもこの街をお訪ねください。
札幌、旭川、東京、和歌山、久留米、熊本。ラーメンどころの各地で絶大な評価を得る各店が、腕によりをかけて味を競います。醤油、みそ、とんこつ。太麺、 細麺、ちぢれ麺。あなたはどのお店で食べますか?ラーメンだけでなく各地のお酒も楽しむことができます。
新横浜ラーメン博物館 http://www.raumen.co.jp/home/
鎌倉大仏
鎌倉を代表する名所となっている長谷の高徳院の本尊である阿弥陀如来像(大仏)は、鎌倉幕府第三代執権・北条泰時(1183-1242)の晩年に作られたものです。「吾妻鏡」によれば、淨光という僧が諸国を勧進して浄財を集めて歩き、1238年から大仏と大仏殿を造り始め、北条泰時もその建立に援助をしたそうです。泰時が亡くなった翌年1243年に完成を見ました。この時、建立された大仏は木造でしたが、4年後の1247年に風雨の為に倒壊したため、1252年にあらためて金剛の大仏が造営されました。
大仏殿は台風や津波で幾度となく倒壊してしまい、結局は現在のような露座の大仏となっています。大仏の高さは12.38m、総重量は121トンにもなります。
高徳院(鎌倉大仏) http://www.kamakura-burabura.com/meisyokamakuradaibutu.htm
鶴岡八幡宮
京都の岩清水八幡宮を厚く信仰していた源頼義が前九年の役で奥州の安部氏を平定した後、1063年に、京の岩清水八幡宮を鎌倉由比ガ浜郷に勧請し社殿を創建したのがはじまりです。その後、1180年に源頼朝が鎌倉入りした際に由比ガ浜の八幡宮(元八幡)をこの地小林郷に移しました。1191年には武士の守護神の宗社に相応しく上下両宮の現在の姿に整えられました。頼朝が征夷大将軍となり鎌倉幕府が開いたのはその翌年のことです。
鎌倉はこの頃すでに京都と並ぶ政・治文化の中心となっており、頼朝は関東の総鎮守となって崇敬されていました。以来、鶴岡八幡宮は常に鎌倉のシンボルとして、また鎌倉幕府滅亡後も武門のシンボルとして豊臣・徳川家から手厚い信仰を受けていました。
鶴岡八幡宮 http://www.hachimangu.or.jp/
中華街
中華街は外国人居留地が発展した街で、安政4年にペリー提督が浦賀に来訪したときに、徳川幕府が横浜を貿易港として定めたのが始まりとされています。横浜は欧米人の居留地として、商取引を行って発展しました。当初の中国人は1,000人ほどでしたが、年を追うごとに貿易も盛んになって、それと共に中国人の数も増え、不慣れな日本食や洋食ではなく、中国料理を食べられるように考え、外商に勤める料理人が独立し、主として中国人を対象に商売を行ってきました。開港当時の中華街は南門シルクロード一帯にあって、中華料理店は2〜3軒しかありませんでした。関東大震災の後に現在の位置に移り、長さ約150mほどの通りの両側に店が作られ、この大通りを中華街と呼ぶようになりました。しかし、本格的な中華料理店は十数軒しかなく、少数の中華そば店があったようです。このような状態が第二次大戦まで続き、戦後いち早く復興に立ち上がって街づくりに専念し、現在の街として栄えています。
現在では500m2(東西南北の牌桜でかこまれたあたり)。大通りの長さは、善隣門〜交番までで、約300mのなかに、料理・雑貨・土産・クリーニング・靴など約500のお店があり、その内、中国料理店は190店弱。(内、広東料理が100店ほどで、上海、北京、四川、飲茶、海鮮、台湾、福建などがあります。)
横浜中華街 http://www.dogashima.com/
横浜チャイナタウン http://www.dogashima.com/
八景島水族館&シーパラダイス
横浜市の一番南に位置し、鎌倉市、逗子市、横須賀市と境を接する金沢区。その一角にある人工島「八景島」のまるごと全体を使って展開しているシーサイドアミューズメントパークが横浜八景島シーパラダイスです。
具体的な内容としては、アクアミュージアム(水族館)、プレジャーランド(遊園地)、ベイマーケット(ショップ・レストラン)、マリーナ、ホテル、以上の施設から成ってるということですが、遊園地ファンの視点で簡単に言えば、「遊園地と水族館が合体した施設」ということになります。「八景」とは、国語辞典によれば「一地方の特にすぐれた八つ景色、または景勝(景色のよい土地)」とのこと。中国湖南省に瀟江(しょうこう)と湘江(しょうこう)という二つの川が合流するところがあり、そのあたりは「瀟湘(しょうしょう)」と呼ばれ、大変に景観が素晴らしい所だっとそうです。その付近の八ヶ所を北宋(1000年ごろの中国)の画家「宋迪(そうてき)」という人が画題として選んだことから、「八景」という「考え方」、「風景、景勝地の取り扱い方」といったものが生まれたということです。それが日本にも伝わって、1500年ごろには最初の有名な八景として、近江八景(琵琶湖南部の景観)というものが生まれました。
さらにその後、日本各地にもこれが伝わって、いろいろな「八景」が誕生したらしいです。「金沢八景」とは、こちらは江戸時代の初期、1677年に中国の僧「心越禅師」が金沢の地を訪れたとき、ここで目にした海岸沿いの風景が、中国の瀟湘八景にそっくりだったことから、これを絶賛して歌に詠んだとのことで、そのあたりから「金沢八景」との呼び名が生まれたとされています。
さらに江戸時代末期には東海道五十三次で名高い浮世絵師の歌川(安藤)広重が「金沢八景」を描いたことから、金沢八景の名は、より一層有名になりました。この金沢の海岸沿いの一帯は以上のように、古くから、人々に賞賛されるほどの風光明媚なところだったのですが、江戸時代以降、埋め立てによる開拓が進められたことにより、現在では昔の面影はすっかり失われてしまいました。
今日、「これがあの有名な金沢八景」というほどの風光明媚な場所を見つけることは困難で、わずかに、京浜急行電鉄の「金沢八景駅」と、この「八景島」に名前だけを残しているといった状態です。「八景島」とは、この金沢地区では、昭和46年から横浜市の都市計画の一環として「金沢地先埋め立て事業」というのが行われました。その目的は市内に点在する中小企業を移転させて市民の住環境を改善するということでしたが、これと同時に市民のために自然としての海岸を保全するという目的で、人工浜(海の公園)と人工島(八景島)が計画されました。
まず昭和63年(1988)に海の公園海水浴場がオープンし、続いて平成元年には沿岸をつなぐ新交通システム「シーサイドライン」が開通、平成5年(1993)に八景島(シーパラダイス)のオープンとなりました。もともと横浜市の公共事業の一環として生まれた人工浜と人工島であり、それぞれ「海の公園」の中の「浜部」と「島部」と呼ばれ、両者1セットとして、市民のための「公園」との位置づけで整備が進められました。しかし最終的には人工浜の方だけが「海の公園」となって市の施設として運営され、人工島には八景島シーパラダイスが「入居」することとなりました。
横浜八景島シーパラダイス http://www.seaparadise.co.jp/
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